細かな石が敷き詰められ、修羅道ではないかと確信した涸沢の上流域、やはりありました。
沢本流との合流地点から2〜300mほど斜面の登ったと思われます。

大型矢割跡を残す石材は、江戸城築城石採石初期の慶長時代であることを物語ります。



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