大型矢割跡、矢穴を残して作業が止まっている石材が多数山中に残っています。
矢穴跡から考査すると慶長時代の採石跡と思われますが、なぜ作業が止まってしまったのか一つの謎なのです。

慶長時代、作業が止まってしまう要因はいくつか考えられます。
慶長九年、徳川家康による天下普請の発令年、東南海において巨大地震が発生しています。
しかし、江戸城改修においては普請発令直後であったため、大きな影響はなかったことでしょう。

天下普請から十年後、慶長十九年十月二十五日、各地古文書より日本海、太平洋沿岸の連動大地震が発生、津波が各地を襲ったようです。
詳細な資料が少なく本震の特定場所、地震規模が明確になっていないのですが、
影響は大きく、道後温泉の温泉が止まってしまったり、伊勢や京都では死者が、
大阪では山崩れ、越後高田では多数の死者が出たと記録されています。

また同年、京都方広寺の鐘に刻まれた銘文「国家安康」「君臣豊楽」に激怒した家康が隠居先であった駿府を出発、二条城に布陣して大坂冬の陣が勃発したのです。
幕府軍の攻撃により翌年、大坂夏の陣において豊臣家は事実上滅亡となりました。
この影響で江戸城修築の作業は一時停止しています。

その後、元和時代に入り再び徳川秀忠による江戸城修築の普請が発令されていますが、
慶長期に採石した担当大名の石丁場に、丁場の譲り受けが成立しないと他大名が採石することは無いと考えられています。
そのため、慶長期の採石跡が採石途中で現存しているのではないかと思われます。

あくまでも筆者の仮説です。



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