「是ヨリにし 有馬玄番 石場 慶長十六年 七月廿一日」とされる銘文が入った巨石です。
この巨石を見るたびに疑問に思います。

「是ヨリにし・・」
どう読み込んでも「是ヨリみ〜」と読めるのです。

この銘文が入った巨石の西側には「羽柴右近」の銘が入った石材が存在し、石丁場が形成されています。
また、西方向には矢穴石、矢割石が比較的少なく、石場と宣言している割には大規模な作業痕跡がありません。
標識紋とするのであれば、石材の大量確保が可能な「是ヨリきた」または採石が期待できる沢が流れる「是ヨリみなみ」とするのが自然でしょう。


「有馬玄番 石場…」と解釈されていますが、
本当に有馬玄蕃頭豊氏のことでしょうか?
細川家文書「伊豆石場之覚」の記載では多賀地区、網代地区への有馬玄蕃頭豊氏の採石記録がないのです。
また、石丁場内の刻印に有馬玄蕃頭豊氏の代表紋である「釘抜紋」が見出されないのです。

どうしても「有馬・・・」と読み解けないため、
この巨石に銘文を刻んだ石工は、有馬玄蕃頭豊氏配下の石工ではないと思われるのです。

もし、有馬家とするなら細川家文書「伊豆石場之覚」に同地区での採石記載がある有馬左衛門佐の呼称を持つ有馬直純のことではないでしょうか?
有馬直純はキリシタンとして洗礼されていますが慶長17年、父・晴信の岡本大八事件(晴信は改易後死罪)により、以後キリシタンを迫害。
父と後妻・ジュスタの間に生まれた8歳と6歳の異母弟を殺害しています。

慶長九年、徳川家康の手伝普請(天下普請)を受けて、家康の養女・国姫を正室としていた有馬直純がいち早く多賀の石丁場を担当、
慶長17年の事件が起こるまでキリシタンとして丁場を担当していたとすると、
刻銘が刻まれた巨石周辺からキリシタン大名が使用する「△」「+」の刻印が多数見出されることは当然のことでしょう。



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