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四百余年の時を刻む江戸城築城石石丁場跡。石工達の息吹を感じて下さい!

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   国宝・松江城築城主「堀尾吉晴」と
 東伊豆大川地区「谷戸山石丁場」との
 意外な関係

2015年7月8日、島根県松江市の「松江城」が国宝に指定されました。国内の現存天守12城では5番目の国宝指定(天守では63年ぶり)となっています。
※現存天守…<国宝>松本城・犬山城・彦根城・姫路城・松江城
      <重要文化財>弘前城・丸岡城・備中松山城・丸亀城・松山城・宇和島城・高知城
現存天守とは日本の城の天守で江戸時代または江戸時代以前に建設され、現代まで保存されている天守のことです。

さて、東伊豆から遠く離れた島根県松江市の「松江城」築城主、「堀尾吉晴」と大川谷戸山の石丁場、一体どんな関係があるのでしょうか・・?

まずは堀尾吉晴の経歴から・・・

天文13年(1544年)尾張丹羽郡御供所村(愛知県丹羽郡大口町豊田)の土豪・堀尾泰晴の長男として生誕。
天正4年(1576年)長篠の戦に出陣。
天正7年(1579年)播州姫路三木城主・別所小三郎との戦の功績により秀吉より分銅紋の付いた旗三本、槍十本を賜りました。分銅紋の使用はこの時からと思われます。
天正10年(1582年)の備中高松城攻めでは、敵将・清水宗治の検死役を務め、山崎の戦では秀吉の命で堀秀政や中村一氏とともに先手の鉄砲頭として参加。天王山争奪の際に敵将を討ち取るという功績を挙げ、丹波氷上郡内(黒井城)で6,284石となりました。
天正11年(1583年)若狭高浜において1万7,000石。天正12年(1584年)2万石に。
天正13年(1585年)佐々成政征伐に従軍。田中吉政・中村一氏・山内一豊・一柳直末らとともに豊臣秀次付の宿老に任命されました。
天正15年(1587年)の九州征伐にも従軍し、正五位下帯刀先生に叙任されました。
天正18年(1590年)の小田原征伐にも従軍。秀次の下で山中城攻めに参加。小田原開城後、戦功を賞され関東に移封された徳川家康の旧領である遠江浜松城主12万石を与えられ豊臣姓も許されています。
秀吉の晩年、中村一氏や生駒親正らと共に三中老に任命され、豊臣政権に参与しました
慶長3年(1598年)秀吉没後、家康に接近。石田三成や前田利家ら反家康派との調整・周旋を務めています。
慶長4年(1599年)10月1日、家督を次男の忠氏に譲って隠居。その際、家康から越前府中に5万石を隠居料として付与、家康から知行を与えられた最初の例となりました。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に。
慶長8年(1603年)、家康の大江戸建設、市街地拡大のための運漕整備に於いて十番組所属の大名として命を受けています。
慶長9年(1604年)徳川家康、天下普請による江戸城大改修が発令されました。
慶長16年(1611年)、松江城落成直前死去。享年68

松江城が国宝となった理由は長年行方不明となっていた祈祷札が発見され、札に記された「慶長16年・・」の記載で築城年(落成年)が明確になったことが決め手となりました。
堀江吉晴が東伊豆の石丁場に関連するポイントは・・。
●堀江氏は城普請の名手と云われていた。
●徳川家康より慶長8年の大江戸建設、市街地拡大事業の命を受けていた。
●分銅紋を利用していた。
●東伊豆大川の石丁場より大量の分銅紋刻印を残す築城石が見出されている。




以上のことから、国宝・松江城を築城した堀尾吉晴は松江城を築城開始(慶長12年といわれています。落成は慶長16年)以前の江戸城大改修に携わり、東伊豆大川の谷戸山より多くの築城石を献上しているのです。この時の江戸城築城石採石の経験と技術を活かして、松江城の築城に携わったのかもしれません。

東伊豆の築城石は国の重要文化財に指定されている江戸城清水門櫓門や桜田門の石垣に、採石技術は国宝・松江城の石垣に利用されているのではないでしょうか?
つまり、国宝や重要文化財に付随する重要埋蔵文化財と言っても過言ではありません。





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